「神は示して物申す、故に、神なり。」といった人がいます。  しかし、言葉で物申す人間には、御社の前で自分の最高の秘密さえ 口にしてしまう程の仲なのに、目にも見えず言葉でも語らずですから、神様とは、理解し難く、時には怖い、人間とは別の"何か 特別な存在"として扱われてきました。

 国が始まって以来の長い年月農耕民族として生きてきた日本人には、稲作物の出来が食料供給の善し悪しに密接に関わって いることから、天候など自分の力ではどうにもならない自然の力を前にして、人の力を越えた存在である神に対して、切実な思いで 祈りを捧げてきました。

  日本のお祭りが、長雨や台風や干ばつ等、気象が荒れやすい夏前から収穫後の秋までにかけて行われるようになったのは、 こうした背景と結びついています。

夏前や夏中には、収穫まで順調に進むことを祈願し、秋の収穫後には、その年採れた物をお供えし、無事収穫出来たことを感謝します。

農耕民族である日本人にとって、農作物を収穫することは、人間だけの作業でなく、神様も参加した、神と人との共同作業であり、日本の お祭りは、神様に力を貸して戴く儀式であり、その共同作業の結果、得られた物を共に祝う儀式なのです。

 お祭りには、神様を人々の中にお迎えして、一緒に喜び祝い、そしてお送りするという一連の流れがあり、お祭りの御撰として、人が実際 食べる物やその年に採れた最初の作物をお供えしますが、それには、普段 "何か特別な存在" である神様を擬人化し、神を人と同じ物で 持て成すことで、神と人が共同飲食をする(神人共食)という意味があり、お祭りの最大の行事です。

そして、御撰には、お箸が添えられますが、神と人が一緒に使えるよう、お箸の両端が細くなっている両口箸という箸が使われます。

  一つの箸の、一方を神が使い、もう一方を人が使うという意味において、神と人との合一の手段として、お箸が大切な意味を持ちます。   同じお箸を使い同じ物を食べる事で、神と人が共に共存することを感じ取り、神の魂が我が身に呼ぶことを願うのです。

また、お箸は二本の小棒が寄り添って初めて成り立つ道具です。  それは、神と人との関係のみならず、世の中においての、人と人との 関係さえも象徴しているといえるのではないでしょうか。

  寄り添う心の大切さに気付けということでしょうか。こうした理由から、古来より、お箸は祭器として崇拝されているのだと思います。

 ある祝詞の中に、「人は則ち、天下の御物なり。・須く、鎮まることを司るべし。心は則ち神との本の主たり。」という一節があります。

  神物をを御物と解釈し、「神は天上の魂物であり、人は天下の魂物であり、共に魂のあるもの。  心静かに穏やかであれ。   その心こそ神と人とを結ぶ明かりのようなものだから。」というような意味で理解していますが、神であれ人であれ、誰かと寄り添うには "穏やかな静かな心"が必要です。そうした心と心の寄り添うところに人は幸福を感じるものです。

  「多募が箸、されど、箸。」神様が好まれるものは、お箸一つであっても、意味深いものです。